岩代阿津賀志山防塁(1/3)

※非常に長大な遺跡なので、3回に分けてご紹介します。
※岩代阿津賀志山防塁(2/3)はこちら
※岩代阿津賀志山防塁(3/3)はこちら

ジャンル:古代防塁
所在地 :福島県伊達郡国見町大木戸阿津加志山一 など
お勧め度:★★★☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :一部のみあります。
登城日 :2016年11月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
「源平の合戦」などと通称される「治承・寿永の乱」(1180年~1185年)の長い戦いが、源頼朝の勝利となりました。
その後、総大将である頼朝と、戦功著しい弟・義経との葛藤が高まった結果、義経は奥州藤原氏を頼り落ちていきました。
義経はそこで再起を図ったのか、そこで安住することのみを願ったのかは分かりませんが、頼朝は代替わりしたばかりの藤原泰衡に義経追討を命じました。
先代の父秀衡は義経を将軍として頼朝に抵抗するよう遺言した、と言われていますが、泰衡は義経を討ち、頼朝と和平を結ぶ道を選びました。
しかし、頼朝は奥州藤原氏をそのままにしておくつもりはもともとなかったようで、奥州への侵攻準備を進めました。
目論見が外れた泰衡は、白河の関から中央突破してくるであろう頼朝軍を撃退するための布陣の中心として、推定延長3km以上にも及ぶ長大な阿津賀志山防塁を築いたと言います。

しかし、広大な布陣を敷いたにもかかわらず、合戦はわずか数日で決着がついたといいます。
開戦前日の夜に、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀の一か所を埋めてしまっていたのです(どこを埋めたのかは不明)。
結局はそこが蟻の一穴となり、背後に回られた奥州軍はさんざん打ち負かされ、これ以後、反攻に出ることができないまま、奥州藤原氏は滅亡しました。

【縄張】
縄張、というよりも全体布陣図(厚樫山山頂にある説明板から)
阿津賀志山の布陣概略
この図は上がおおよそ南になっています。

【写真】
藤原国清の本陣は厚樫山(阿津賀志山)山頂にあったようです。
厚樫山山頂
駐車場付近から見上げるとこんな感じ。

山頂の南側には説明板が設置されています(一部別途紹介のため省略)。
山頂説明板

また、その背後には「追憶の碑」が建てられています。
碑

展望台が設置されているので、本陣跡と思われるところを撮影。
推定国衡本陣
特別人工的に加工はされなかったようです(当時ならこれが普通)。

展望台からの眺め。
推定国衡本陣からの眺め
写真の左側あたりをほぼまっすぐにかつての防塁が続いていました。
今は大きく分けて5か所が残るのみです。

さて、山頂には遺構らしいものはありません。
厚樫山中腹から阿津賀志山防塁防塁がスタートします。
防塁始点
写真中央右手にある石がいくつか転がっているところから始まります。
最初から二重掘構造のように見受けられます。

こんな地味な遺構を見つけるのは簡単です。
厚樫山を登るルートは一つではありませんが、国道4号線から西に曲がり、そこからはきれいに舗装はされつつも、片側1車線すら確保されていない道を進みます。
山を登るルートに入っても状況は同じですが、このポイントにはいきなり路側帯が現れます。
そして・・・
防塁始点案内看板
この案内看板があれば間違いなしです。

(続く)
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Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
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一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

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