磐城小峰城(2回目)
2016年10月再訪
【前回】と【震災後】
2015年4月から本丸内に入れるようになった、というのを遅ればせながら知ったので訪問しました。
本丸内には大手門からではなく、搦手に当たる櫻門(西側)から入る道しかまだ復旧していません。
やはり、石垣全体の修復は時間がかかるようで・・・

いまだに手つかずのようで、土のうで崩落防止をしている個所もありますし・・・

大手門に至るルートは工事中です。
本丸内部にしても・・・

撮影位置の関係上、分かりにくいですが、本丸の西~北の縁(というか内部から見ると土塁、外部から見ると石垣となっているところ)には近づけないように柵が施してあります。
とはいえ、大手門のすぐ外までは出られますし、復元三階櫓にも入れます。

また、私の勘違いも発見しました。
小峰城の本丸南側の高石垣は布積(ほぼ同じ高さの石を積み上げるため、横筋が通る積み方)だとばかり思ってました。
【崩落前】

【修復後】

崩落前の写真は現地の展示物です。
ちょっと遠いし、拡大のし過ぎでかなり粗い画像ですが、石垣の真ん中からちょっと上あたりで波打つようになっているのが分かります。
修復後はその崩落前の写真の左半分ぐらいですが、左下に大きく円を描いて、そこから曲線を伸ばし、石垣の上のところで小さい円を描き、さらに曲線が伸びていく・・・
装飾性の高い石垣でしたm(_ _)m
さらに、工事用の柵を使って貴重な絵図などを掲示してくれています。
中心部の縄張です。

築城主、丹羽長重について

実は、棚倉城が大名復帰後初の縄張です(ただし、築城途中に転封されたので縄張としました。完成させたのは代わって入城した内藤信照です)。
なお、彼は父丹羽長秀とともに築城がうまいと評されていた、というのをどっかで見た気がします・・・
さらにいえば、彼の子光重が二本松に転封となり、現在の二本松城を築いたそうな。
・・・なんか、「秘伝の書」でもあるんですかね?
初期と思われる町割

このころに、現在の白河市中心部の基礎ができていることが分かります。
その後の最も有名な城主。

松平定信の時代の町割

ここまでくると、今の地図と対比してある程度どこに何があったのか分かるレベルです。
また、国指定史跡に復元建造物を作れたのは、戊辰戦争の戦火があったにもかかわらず、このような貴重な図面があったためです。


こーいうのが残っているのが、歴史を大切にしているからなんでしょうね。
今回は三階櫓内部の写真は割愛しました。
いずれまた、ということでw
【前回】と【震災後】
2015年4月から本丸内に入れるようになった、というのを遅ればせながら知ったので訪問しました。
本丸内には大手門からではなく、搦手に当たる櫻門(西側)から入る道しかまだ復旧していません。
やはり、石垣全体の修復は時間がかかるようで・・・

いまだに手つかずのようで、土のうで崩落防止をしている個所もありますし・・・

大手門に至るルートは工事中です。
本丸内部にしても・・・

撮影位置の関係上、分かりにくいですが、本丸の西~北の縁(というか内部から見ると土塁、外部から見ると石垣となっているところ)には近づけないように柵が施してあります。
とはいえ、大手門のすぐ外までは出られますし、復元三階櫓にも入れます。

また、私の勘違いも発見しました。
小峰城の本丸南側の高石垣は布積(ほぼ同じ高さの石を積み上げるため、横筋が通る積み方)だとばかり思ってました。
【崩落前】

【修復後】

崩落前の写真は現地の展示物です。
ちょっと遠いし、拡大のし過ぎでかなり粗い画像ですが、石垣の真ん中からちょっと上あたりで波打つようになっているのが分かります。
修復後はその崩落前の写真の左半分ぐらいですが、左下に大きく円を描いて、そこから曲線を伸ばし、石垣の上のところで小さい円を描き、さらに曲線が伸びていく・・・
装飾性の高い石垣でしたm(_ _)m
さらに、工事用の柵を使って貴重な絵図などを掲示してくれています。
中心部の縄張です。

築城主、丹羽長重について

実は、棚倉城が大名復帰後初の縄張です(ただし、築城途中に転封されたので縄張としました。完成させたのは代わって入城した内藤信照です)。
なお、彼は父丹羽長秀とともに築城がうまいと評されていた、というのをどっかで見た気がします・・・
さらにいえば、彼の子光重が二本松に転封となり、現在の二本松城を築いたそうな。
・・・なんか、「秘伝の書」でもあるんですかね?
初期と思われる町割

このころに、現在の白河市中心部の基礎ができていることが分かります。
その後の最も有名な城主。

松平定信の時代の町割

ここまでくると、今の地図と対比してある程度どこに何があったのか分かるレベルです。
また、国指定史跡に復元建造物を作れたのは、戊辰戦争の戦火があったにもかかわらず、このような貴重な図面があったためです。


こーいうのが残っているのが、歴史を大切にしているからなんでしょうね。
今回は三階櫓内部の写真は割愛しました。
いずれまた、ということでw
- 関連記事
スポンサーサイト