南羽州の優将 白鳥十郎長久

居城位置:GoogleMap

戦国時代の中頃、山形県は村山市の白鳥地区から優秀な外交能力を持つ武将が生まれました。
その名は白鳥十郎長久(しろとりじゅうろうながひさ)。
外交能力以外はどうかというと伝説にいろどられる人物なのでよく分かりませんが、外交は相手の能力や心だけでなく、時節を読むこと、そして時にはハッタリを使ったりなど、いろんな能力、心の強さが求められるので、「文の道」の知識量はわかりませんが、能力は高く人望もあった人物であろうことは想像に難くありません。

しかし、公的な役職はないので、いわゆる国人、土豪、地侍(以下、国人で統一します)などと呼ばれる身分です。
彼は白鳥城城において白鳥郷を実効支配した白鳥家の当主でした。・・その後、白鳥郷から10数km南にあった谷地城に本拠を移すことになりますが。

ちなみに、その血筋は今の奥州市の白鳥(陸中白鳥城があるところ)から流れてきた、という説がありますが、真偽のほどは分かりません。

上にも書いたとおり、彼に関しては文献よりも伝説によるところが多いのですが、史実(らしいです。すいません。自分で調べてませんので)として以下の事跡が残ります。

○一国人にも関わらず、南奥羽に隠然とにらみを利かせていた伊達と羽州探題家の最上の争いの仲裁を行う。

○今の山形県河北町谷地に居城を持っていた中条氏の当主死去にともなって谷地城とその支配地を譲り受ける。

○織田信長に謁見し、羽州の覇者と認められる(一説には羽州探題を詐称したとも。それを知った羽州探題家当主最上義光が織田信長に使者を送って撤回されるが)。

一番すごいのが真ん中の、中条氏の領地すべてを貰い受けた、というところですね。

中条氏と白鳥氏がどのような関係かはわかりません。
中条氏からの養子として長久が白鳥家に入っているのであれば妥当ですが、そういう説は聞いたことがありません(もしそうなら、白鳥よりも家格が高い中条に姓を戻すのが普通でしょうし)。

中条氏と白鳥氏が相当近しい関係だったとしても、中条の名前をなくしてまで継がせた、というのはとても考えられません
また、そうだったとしても、譜代の家臣(多少なりとも血縁がある人はいるのほぼ間違いないと推測されます)から謀反とまではいかないまでも、かなりの反感を受ける可能性が非常に高いのに、そういう伝承が残っていない。
それに、中条氏も長く谷地を治めていましたから、中条家を継ぐにふさわしい血縁が一切ないとか、血縁が他家の白鳥氏以外いないということはかなり可能性が低いはずです。
つまりは、中条の名跡を消してもいいほどの、もしくは消さなくてはならないほどの理由が、しかも一族郎党すべてが納得できるか、少なくとも反乱を起こせないような状況になるほどの理由でなければこんなことはありえないと思います。

地元の伝説では、長久の有能さにほれ込んで領地を譲った、という話を聞いたことがありますが・・・
武士にとって家名を消すということはとんでもない重大事なので、長久が有能というだけでは説明がつきません。

どうしてこうなったのかすごく不思議ですが、私の疑問はさておき、もともとの白鳥郷に加えて谷地も手に入れた長久は当時の南羽州においてそれなりの勢力を確保したことになります。
また、両領地の間には熊野氏(村山市湯野沢というところです)という国人がいましたが、白鳥氏との関係が深いようなので、これも勢力圏といっても間違いないでしょう。

もう、最上家恐れるに足らず! と思っての織田信長との関係構築と推測します。
しかし、それがまずかった。
まあ、一番目、二番目のも問題ありますから、いずれにせよ衝突する運命にしても、最上義光が後に撤回できたとはいえ、勝手に羽州の覇者を自称し、しかも中央の最大権力者ともいえる織田信長に認めさせた、ということは、羽州探題である最上家にとっては到底赦せることではありません。

もしかすると伊達VS最上の仲裁にでてきた時点で鼻についたのかもしれません。
足利将軍家に連なる羽州探題家最上家と、鎌倉時代から地頭として福島県伊達郡に所領をもつ、魚名流といわれる藤原氏の末裔である(といわれる)歴史ある武家である伊達家にたいし、白鳥は血筋がしれないたかが国人のくせにという、現代ではどうでもいい、しかし当時は非常に大事だった考え方とあわせて、最上川をはさんで領地が接している事情からすれば、ずっと「この生意気な・・・いずれはこいつを・・・」という思いはあったとしてもおかしくありません。

もちろん、領土拡張(最上義光の言い分であれば、羽州探題に従わない賊の征伐、でしょうか)のためにも。

最上義光は、自分の長男(後の義康)を長久の娘と婚約させた上で、「自分が今にも死にそうだから、息子の後見になってほしい。だから山形まで来てくれ」という趣旨の書状を送ります。
伝説では、山形城に向かうことを決めた長久に対して周囲は罠だからやめろと勧めたといいますが、長久はこれを無視して山形城にわずかの護衛とともに入ります。
義光はかなり念入りに病気を装ったそうですので、最上家をのっとる好機ですから多少疑わしくても行く価値があると思ったのではないでしょうか。

病気を偽った最上義光の枕元に立った彼は、義光自身に刺し殺されたといいます。
・・・護衛たちも隠れていた最上家臣達に。
その後、長久が本城とした谷地城はわずかな守兵が抵抗したもののあっという間に落城させられ、白鳥十郎長久の野望は潰えてしまったのです。

その人物の実像は文献による実証はほぼないものの、地元で愛され続ける戦国の名将の一人といえるでしょう。

P.S.
なお、長久の妻は、長久の死後に谷地城から逃亡しましたが、後に最上義光からそれなりの石高を与えられ、天寿をまっとうしたといわれています。
また、長久の菩提を弔うために名刹を谷地に勧奨し、清和源氏足利流の家紋「二つ引両」とともに寺領を与えられています。
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No title

 奥州にもまだまだ隠れた名将がいますね。そういえば大河「独眼竜政宗」に原田芳雄さん演じる最上義光が病気の振りして招いた武将を刺殺するという悪辣なシーンがありましたが、その武将が白鳥長久であったかどうかは思い出せません。

 それにしても招かれた先で危険があると分かっていても出かけて謀殺されるとは、太田道灌公といい、白鳥長久といい自信過剰だったのか現代では見えにくい事情があったのでしょうか?彼らの心境を想像してみるのも一興ですね。

質問

白鳥氏と最上氏の紋がなぜ同じなのか?
ネットでなにか情報があるかも、と調べていて訪問しました。

PS以降の情報は、私のとって初めてでした。
お手数ですが、紹介してくださった情報の元になる資料が何なのか、教えていただけませんか?

なお、No titleにある、刺殺された武将はおっしゃる通り白鳥長久です。
なぜ、罠と判るようなところに出向いたか、確たる証拠になるような資料は残っていないようですね。

返信が遅れてすいません

遅れた上に申し訳ないのですが、これらが書いてあったHPが見つけられなくなりました。
・・・数年前に見た、河北の伝承などを掲載していたHPだったのですが・・・

話はちょっとそれますが・・・
冒頭にも書かせていただいたとおり、白鳥十郎は一級資料がほとんど存在しないので謎が多いです(地方の武将の宿命ですね・・・)

そこから家紋の話に移りますと、白鳥家の家紋が二つ引両、という認識はあくまで菩提寺である東林寺に残された紋だけだと思います。

書き始めればいろんな可能性がでてきますが、白鳥家には別の家紋があったはず、と考えています。

ありがとうございました

丁寧なご返事をいただきありがとうございます。

白鳥氏の菩提寺の東林寺の住職に東林寺の紋は、なんで二つ引両?
ときいたところ、白鳥氏に関係している、とのことで、
じゃなんで白鳥の紋は最上と同じ二つ引両なの?
と重ねて聞いてみましたが、その理由はわからないということでした。

十郎の妻は最上から輿入れした、という説もあり、この説から想像すると二つ引両を用いた理由もなんとなくわかるような気がします。

ある本には白鳥の定紋は二つ引両と九曜星とでていましたが、その根拠となるものが何なのか、不明です。
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プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に、日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなど、ヌル系ですがそれなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント= https://twitter.com/jcrsrchr

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