山形城縄張から感じる最上義光像

二の丸以内の現状
これが、最上氏改易時の山形城の縄張だそうです。

三の丸に町人町を取り込んでいるのが特徴だそうです。

また、三の丸の外にも町があります。
上の地図ではわかりませんが、右側(東側)に羽州街道があり、それに沿って町人町がありました。
現在でいうと七日町、十日町あたり(この頃も今も山形市の中心商店街)。
これらの町の防御がないように見受けられますが・・・

実は、この町の東にはお寺さんが密集してます。
地元では「寺町」と呼ばれてます(住所としての「寺町」は存在しません)。
この当時のお寺さんは有事の際には城郭として利用されます。
つまり、寺とお城にはさまれた町は有事があったときには、急造ですが「四の丸」ともいえる守備陣に守られることになります。

また、城門が特徴的。
ほとんどすべてが外枡形。

堀の内側に向けて四角いスペースを設けるのが「内枡形」。
堀の外側に向けて四角いスペースを設けるのが「外枡形」。

防御を考えると、内枡形のほうが有利。
内枡形は城門正面からしか攻撃を受けないけれども、外枡形は後ろ以外からガンガン攻撃される。
逆に言えば、内枡形は正面方向にしか攻撃を返せないけれども、外枡形は背後以外にはガンガン攻撃できる。
外枡形は守りに不向き、打って出るのに適したものと思います。

つまり、城は不測の事態に時間稼ぎをするものであって篭城するものでなく、外に打って出て「国も民も守る!」のが羽州探題の役目であると心得ていたのではないかと想像します。


さらに、この地図ではわかりませんが、山形城には天守はありませんでした。
表高で57万石の太守。
たとえば加藤清正のようにでっかいのをどんどん建てることも可能でしたでしょうに。
おとなりの伊達政宗のように、徳川幕府に後ろめたいことがあるわけでもなし。

単純にいらないと思ったんでしょう。
1 篭城する気もない城の本丸に多重櫓なんて・・・
※ 縄張からの想像。根拠なしw
2 南北朝期からずっと羽州探題としてここにいたのに、いまさら民衆に畏怖の念を抱かさせるための城郭建築なんていらないよね・・・
※ 少なくとも、最上義光治世時に民衆の一揆や騒乱があったというような事実は記録にないそうです。
3 そんなものに金かけるなら、寺院への寄進のほうがましじゃ・・・
※ 根拠なしwww

民と国を愛した名将、最上義光の思想、心意気が詰まった城が、この当時の山形城なのです。


・・・かなり美化した気もしますが、これまではかなりこきおろされていた武将なので、このぐらいはいいのではないでしょうかw
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山形を拠点に、日本のお城めぐりを趣味としています。
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藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなど、ヌル系ですがそれなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

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