「乞食大名」鮭延越前守秀綱

最上義光記念館の記事もごらんになってください。私の方では一部別の説でご紹介しています。

最上義光の武将に、鮭延越前守秀綱なる人物がいます。

関が原の合戦後、57万石の大大名となった最上義光から11,500石という、大名の家臣ながら小大名並の家禄を得ることになったのです。

これほどの家禄をもっていながらなぜ「乞食大名」の異名をタイトルにつけたのか。
海音寺潮五郎氏著の短編小説「乞食大名」(短編集『かぶき大名』収録)からそのままいただきました。
この短編小説こそ、鮭延越前守秀綱をモデルにしたものだからです。

1生まれから鮭延氏当主となるまで

秀綱は、いまの秋田県南部から山形県最上郡北部までを治めていた小野寺氏の家臣、佐々木貞綱の子として生まれました。佐々木氏は元々は近江源氏佐々木氏流の出ですが、いつの頃からか小野寺氏に仕えるようになったといいます。

さて、貞綱の居城は元々岩花館だったといいます。

しかし、その西、庄内平野に勢力を張る武藤氏に攻められ、岩花館は落城し、貞綱は鮭延城(別名真室城)に退きました(のち、佐々木氏から鮭延氏に改名)。

このとき捕らえられたのか、和睦のための人質なのか、秀綱は一時武藤氏に預けられることとなりました。

その後の経緯は不明ですが、秀綱は鮭延城に戻り、鮭延氏の当主として活躍し始めることになります。

2最上義光への投降とその後の活躍

その頃、最上義光は現在の最上郡(当時は村山郡)の南部、東部を制圧し、さらに北上を図ります。

当然、秀綱もこれに抵抗しようとしますが、義光の重臣(謀臣ともいわれる)氏家守棟の誘いにより義光に仕えることとなりました。

旧領はそのまま秀綱が治めることが当然条件。

なぜにこんなあっさりと裏切ったのか?

小野寺氏に対する不満?、最上氏の勢いに対する恐れ?

・・・昔のことなのでわかりませんが、当時は普通にどこでも起こっていた出来事でもあります。

義光に仕えたのちの秀綱の活躍は目覚しいものがありました。

小野寺氏攻略の要として、かつての同僚の誘降をしかけたり、湯沢城攻略にあたっては、主将楯岡豊前守満茂の副将として湯沢城を攻め立てたといいます。

彼の活躍の白眉は、「奥羽の関が原」といわれた山形合戦。

最大の激戦地となった長谷堂城の戦いでは、城主志村光安の副将として、上杉軍主将の直江兼続の猛攻を防ぎ、関が原での西軍敗報を受けて撤退する上杉軍を攻め立てるなどの活躍。

これにはさすがの直江兼続も感心し、「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、戦後には褒美をつかわされた、という話もあります(まあ、軍記物の話ではありますが)。

これらの活躍から、旧領鮭延を中心に11,500石という高禄を与えられ、最上家の重臣という位置を固めました。

この後、彼の名が出てくるのは「最上騒動」といわれる最上家内の跡目争いです。

2代目家信の早世により、幼主義俊(当然、当時は幼名のはずですが)か、家信の弟である山野辺義忠かで家内が完全に分離。さまざまな騒動の果てに最上氏は改易となり、重臣たちは各地の大名にお預けとなりました。

3最上氏改易後

秀綱は佐倉藩土井利勝の元へいきましたが、その後赦され、土井家に5,000石(これも破額といえるでしょう)で召抱えられました。
 
さて、ここからが「乞食大名」の話です(じつは、本が発見できなくてまだ読んでないですw 伝聞情報ですいません)。

土井家お預けとなった彼についていった家臣たちがいました。

彼らは、主君秀綱が生活できるよう、自分たちが働いて秀綱の生活費を捻出したといいます。

その後、秀綱の武勇が利勝の目にとまり、土井家に使えることとしましたが、その家禄5,000石すべてを最上家時代からついてきた家臣たちにすべて分け与えたそうです。

じゃ、彼はどうやって食べていたのか。

家臣らの家を順に回って世話になっていたそうです。

本当のところは、3,000石を家臣たちに分け与えたというのが実態のようですが、過半以上を分け与えるほど、秀綱と家臣らのつながりが深かったのでしょう(義光も同じようなことをしていますね)。

彼の死後、家臣らによって、いまの古河市には彼の菩提寺として「鮭延寺(けいえんじ)」が建立されました。

4雑考

いわゆる槍働きが「武断」というイメージがありますが、兵法はそれだけでなく、罠をしかけたり、懐柔したり、部下をまとめたりと、いろいろな要素が絡み合っているものです。

人間の能力、素養というのは、いま生きている人間に対しても難しいのでなんともいえませんが、彼も羽州の名将の一人であることに間違いないでしょう。

また、彼(だけではなく、幼主擁立反対派)は義光の人物に相当ほれ込んでいたのではないか、と思います。

その想いが強すぎ、正統だからという理由だけで幼主が擁立されることに疑問を抱き、それならば、器量があることがわかっている家信の弟の山野辺義忠でいいではないか、と。

もしかすると、義忠は義光に相当似ていたのかもしれませんね。

最上氏没落の責任は彼にもあるでしょうが、戦国を生き抜いた彼ならば、「仕えるに足る主君を輩出できない主家のほうが悪い」とうそぶくのかもしれません。
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