羽前尾浦城(1/2)

※今回は紹介したい写真が多すぎるので、2回に分けてご紹介します(※羽前尾浦城(2/2)はこちら

ジャンル:中世山城(根小屋式山城か?)
所在地 :山形県鶴岡市大山城山48−2(三吉神社を含む一帯)
お勧め度:★★★☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :東の麓に駐車場があり、また、三の郭と思われる場所付近にも駐車可能です。
登城日 :2016年12月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
築城主、築城年代とも不明。
ただし、天文年間(1532年~1555年)に大宝寺(武藤)晴時が大宝寺城(のちの鶴ヶ岡城)からこちらに本拠を移したようですので、それ以前にも小さな山城があったとしても、尾浦城としての完成はこの頃以降と考えて間違いないと思います。

【縄張】
詳細が分かる資料を見つけられませんでしたが、現地の案内地図は以下のとおりです。
案内地図

【写真】
北側からの遠景。
遠景
なだらかな部分が主要部で、そこから右手にやや高くなっている場所も城域です。

まずは三の郭と思われる場所に車を停めて、そこからスタートしました。

案内地図に「尾浦城址」と書かれている場所を下から。
詰の郭と思われる場所を下から
登ってみてわかったのですが、おそらく、政治・軍事の中心は東の「武藤氏本丸」と案内地図にあるあたり。
こちらは、そちらが攻め落とされた場合に体勢を立て直す、詰の郭ないしは詰の城になるのではないかと、個人的に思います。
攻め落とされた時にはここで反抗できればよし、できなければ、もっと西にある高館(高館山)方向に逃れるための時間稼ぎをするためのもののような気がするのです。

武藤家碑が写真左手あたりにありますが、この左手に今の登り道があります。
現在の登り道
当時の道を改変したものかどうかは不明です。

そこから登っていくと、下から見下ろしたところの突端部に出ます。
詰の郭と思われる場所の東端
非常に細く狭い場所なのですが、下から見上げたとおり、高低差はともかく急峻な斜面なので、重要な防御ポイントと思われます。

この西側にはやや広い平場があります。
詰の郭と思われる場所の中で二の郭相当と思われる場所
基本的に当時の地形を踏襲しているのなら、この「詰の郭」と思われる場所の二の郭相当と思われます。
ここに残存兵を集め、防御態勢を整えるための場所ではないか、と個人的には思います。

ここからさらに西に進んでいくのですが・・・
詰の郭の主要部方向への道
鞍部のようになっており、とても狭い印象を受けます。
なお、この道を進んでいくと高館(高館山)まで続いているようです。

このルートを進みながら、このブロックの主要部らしきピークを見つけましたが、登れそうな道がありません。
そして、そのピークの西に登れそうな場所を見つけました。
詰の郭と思われる場所の主要部方向
・・・この程度の藪ならなんとかなるかな・・・と思っていると。
詰の郭と思われる場所の主要部方向の入り口
・・・入っちゃだめですか・・・

結局、戻りながらいけそうなところを探したのですが・・・
詰の郭と思われる場所の主要部方向の入り口
一度登り口に戻り、北側も確認しましたが、どこにもこの侵入禁止の注意書き・・・

この「詰の郭」、ほぼ入山規制で入れませんでした・・・

(続く)

※年末年始はちょっと多忙なため、年始明けまで更新はできないと思います。
スポンサーサイト

白糸の滝

これまで2回、白糸の滝ドライブインをご紹介しました(1回目2回目)が、白糸の滝そのものはご紹介していなかったので、今回ご紹介します。

山形県の大部分の市町村が最上川水系に属していますが、源流は米沢市の深山にあり、蛇行しながら北上し、最上地方で大きく西側にルートを変えて日本海にそそぐ川です。
日本三大急流の一つとされています。
そして、西にルートを変えた先は両岸を急峻な山で挟まれた、「最上峡」に差し掛かるあたりでは、両岸から数多くの滝が流れ込んでいます。
これらの滝を総称して「最上四十八滝」と呼ばれています(この「四十八」は実数ではなく、「数多い」という意味でつかわれているようです)。

その中で最大の落差、約120mの滝が白糸の滝です。
滝
・・・すいません、滝本体が写ってないですねm(_ _)m
写真の中央部の小さな鳥居の先に小さな祠があり、その背後に落ちてきているのですが・・・
白糸の滝ドライブインからだと真正面になるのですが、時間がなかったので・・・(言い訳)

さて、同じ位置から最上川の下流方向。
下流
・・・こちら側はどうしても人工物が多いので、いまいち雰囲気が出ませんね。

ということで、上流方向。
上流
これだと、なんとなく一幅の水墨画のような世界になりますね。

いたずらでレタッチしたのがこちら。
レタッチ

レタッチ

ここは海風が内陸部へ吹き込んでいくルートのため、冬は寒くて外ではゆっくり眺めてはいられないのですが・・・ドライブインの中で食事やお茶をしながらゆっくり雪景色を楽しむのもいいと思います。

酒田市みなと市場内 小松鮪専門店

ジャンル :鮪料理専門店・海産物販売
住所  :山形県酒田市船場町2-5-56
電話番号:0234-26-0190
営業時間:9:00~18:00
定休日 :水曜日、1/1
駐車場 :たくさん
HP   :食べログ

日本海に来たら、いい加減海の幸をご紹介しなければ、と思いまして、いつもの定番を外してこちらにやってきました。
外観
左から順に、フェリー乗り場(行先は山形県唯一の離島、飛島)、さかた海鮮市場、酒田市海洋センター、酒田市みなと市場、です。

ここは海産物関係を中心としたお土産販売のお店が多いのですが、食事ができるお店が3店舗あります。
さかた海鮮市場2階にある「海鮮どんや とびしま」、酒田市みなと市場内には「酒田のラーメン 月TSUKI」と「小松鮪専門店」。
一番古株で観光客に人気なのは、とびしまさん。
酒田市みなと市場開設時からある、手軽にマグロを楽しむなら小松鮪専門店さん。
一番新顔でラーメン好きなら月さん。

こちらが酒田市みなと市場の店舗リストです。
みなと市場店舗リスト

もちろん、今回のお目当ては小松鮪専門店さん。
最初の頃は海産物販売が中心で、飲食スペースは数席しかなかったのですが、人気が出たのでしょう、飲食スペースを大幅拡大したお店です。

メニュー
メニュー

注文が決まったらこちらで前金でお会計をして席で待ちます。
店内
席数は数えませんでしたが、30人程度は入れたと思います。
しかし、観光シーズンのお昼には結構混み合うようです。

たしか、だいぶ前(飲食スペース拡大前)に来たときは赤身丼にした記憶があります。
しかし、今回は欲張りメニューにしました。
みんな丼
みんな丼です(1,150円)。
みんな=大トロ+中トロ+赤身+ネギトロ、ですね。

お味ですが・・・
いうことありません。
おいしいマグロです。
厚く切られた刺身は柔らかく、本当においしい。
量的にはまあ普通かやや少なめ。
大食いの人は、2杯食べるか、別のお店で別のものを食べるのもいいかもしれません。

酒田はラーメンの町であり、海鮮の町であり、豚肉(平牧三元豚や平牧金華豚)の町でもあります。
ぜひ「太り旅」やってみませんか?

羽前十五里ヶ原合戦古戦場

分類  :古戦場・墳墓
所在地 :山形県鶴岡市友江中野(GoogleMap
駐車場 :ありません。国道112号線は交通量がそれなりにありますので、国道上の路上駐車は危険です。
HP   :こちらとかこちら、またはWikipedia

十五里ヶ原合戦は天正16年(1588年)8月に起きた戦いですが、全国的にはとてもマイナーな合戦であり、国家の歴史の帰趨には直接的な影響があったとは言えない戦いでした。
現在の山形県庄内地域の領有をかけた戦いであり、十五里ヶ原合戦だけに着目すれば、上杉景勝が最上義光を庄内地方から追い出した戦い、という一言で終わりますが、なかなかそう単純なものではありませんでした。
この戦いにおいて、上杉氏と最上氏の悪感情が固定化し、また、豊臣秀吉がその前年に出した奥羽惣無事令に反した結果となった戦いながら、最上氏の訴えが認められない結果となり、のちに最上氏が徳川氏に近づいていく理由の一つとなったものと考えられます。

合戦前後を大ざっぱにまとめると以下のとおりになります。
1 この地を掌中にしていた大宝寺氏(武藤氏)は家中の争いが絶えず、また、現在の山形県内陸部中心を勢力下においた最上義光が庄内地方への進出を目指していた。
2 大宝寺氏は上杉家臣本庄繁長を頼り対抗しようとした(その結果、本城繁長の子、義勝を養子とした)
3 その理由は不明ながら、重心であった東禅寺義長が謀反を起こし、当主大宝寺義氏、跡を継いだ弟の義興を殺害、その結果、東禅寺氏は最上義光の配下として庄内を治めた。
4 このとき、養子となっていた義勝は本庄繁長の元に身を寄せ、再起を図る。
5 伊達政宗が大崎義隆(現在の宮城県大崎市周辺を勢力下としていた奥州探題)との争いの際、本家筋であり、また、妻の実家とされる大崎氏に味方するため、最上義光はそちらに釘付けとなる。
6 それを見た本城繁長が庄内へ侵攻。東禅寺氏は野戦での決戦を決め、十五里ヶ原合戦勃発
説明板
7 奥羽惣無事令発令後でありながら、豊臣政権の采配により、最上氏領ではなく大宝寺氏領(実質上杉氏領)となる。

今残る史跡は東禅寺義長の弟、右馬頭勝正の墳墓、4基の首塚、手引地蔵などです。

説明板のすぐ左手には勝正の墳墓への入り口があります。
墳墓入り口

その先には墳墓、というか祠のようなものがあります。
右馬頭墳墓

また、説明板の右手に進むと、首塚などがあります。
首塚周辺

首塚近景
首塚
雑草に覆われ、こじんまりとしたものですが、戦後430年ほど経過しているにもかかわらず、地域の方の手によるものでしょうか、手入れをされているのが分かります。

さらに国道112号線をわずかに西側に進むと手引地蔵が祀られています。
手引地蔵

手引地蔵
こちらも丁寧に祀られています。

非常に見つけにくい史跡ですが、興味のある方はぜひどうぞ。
また、寒くなると、この近くにある大山上池・下池(ラムサール条約登録湿地)では、たくさんの渡り鳥を見ることができます。


P.S.
討ち死にした東禅寺勝正が佩刀していた刀は、この合戦の結果、本庄繁長の所有するところとなり、のちに「本庄正宗」と呼ばれ、銘刀正宗の中での第一とされました。その後、徳川将軍家に献上され、徳川家の家宝の一つとなりました。
時代は下り、第二次世界大戦後、アメリカ軍(一応正確には国連軍)に占領された際、アメリカ兵に持ち去られ、今は行方知れずといわれています。


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
さらにP.S.
この合戦には悪次郎こと池田盛周も東禅寺側(つまりは最上氏側)として参戦していたようです。
ここから推察できるのは、大宝寺氏は主な家臣団から完全に見捨てられていた、ということです。

山形県内陸部と、山形県庄内地方は交通が難しく、同じ日本海沿岸部である上杉氏の援軍が来る方がややたやすい(「やや」というのは、新潟県北部と山形県庄内地方の間も山と切り立った沿岸部がありますので)。
しかも、越後一国の上杉氏と、出羽の一部しか治めていない最上氏。

大宝寺氏のバックには本庄繁長、つまりは上杉景勝。
それでも逆らった、もしくは逆らわざるを得なかっただけの事情があったのでしょう。

羽後吉田城

ジャンル:中世平山城
所在地 :秋田県横手市平鹿町上吉田吉田(三吉神社を含む一帯)
お勧め度:★★☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :主郭北側にある吉田地域生涯学習センターの門前の空きスペースあたりを短時間なら・・・
登城日 :2016年6月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
説明板
小野寺景道・・・戦国時代後期の武将。小野寺氏第13代当主。詳しくはWikipedia参照。

景道の居城は横手城だったため、城主は子の吉田孫市とされています。

【縄張】
全体は不明。
現在、主郭はほぼその輪郭を確認できる程度には残っており、ほぼ方形の単純な構造であったと思われます。

【写真】
生涯学習センターの端っこを借りて車を置き、主郭内へ。
現在の主郭入り口
近くの橋の工事をしており、その現場事務所が城内におかれているため、遺跡保護のために鉄板が敷かれていました。

この写真の右手には藪化していますが、土塁と、うっすらとですが、堀跡らしき痕跡が確認できます。
主郭北西隅
主郭の北西隅になります。

郭内に入ると、右手(西側)に土塁らしき痕跡が見て取れます。
主郭西側土塁
こちらも藪がひどくて、どの程度の状態なのか確認しにくい状況です。

郭内。
主郭内部
入り口付近から東側を撮影したもの。
東側の土塁がよく確認できます。

北東隅には三吉神社と祠が2つありました。
桝形状の地形
桝形状の地形があるのですが・・・主郭よりわずかですが1段高い・・・
こういう桝形は初めてです(今まで気づかなかっただけかもw)。

三吉神社の脇にはなぜか土塁の切れ目が・・・
主郭北側堀
これは、後世に参拝しやすいように道を切ってしまったのでしょう、きっと。
また、北側堀が確認できます。

参道を降りていくと、これまた堀を埋め立てたような地形がありましたが、写真は割愛します。
その南側にも堀跡が確認できます。
主郭東側堀跡
堀跡としては、道によって破壊されたために幅が狭く、短いながら一番雰囲気を残しています。

神社参道の外側から見るとこんな感じです。
現在の入り口2
桝形虎口っぽく見える構造です。

東側土塁は登っても大丈夫なようです(禁止表示なし)。
主郭東側土塁
土塁の先端(南西隅)は外側に膨れた形状になっており、櫓台と思われます。
なお、説明板もこの櫓台近辺に設置されていますが・・・写真撮影をするには下からでないと無理ですw

・・・で、ここまでは訪問時に感じたことをベースに書いたのですが、ご紹介するにあたってGoogleMap上にマッピングすると気づきました。
三吉神社のある辺りは主郭の「北東隅=鬼門」であることに。
ここに虎口を置くことは当時の常識としてあり得ません。
つまり、後世の改変の結果、たまたま「桝形虎口」に似た形状になっただけであって、本来はあそこは三吉神社(当時も三吉神社かは不明です)が祀られているとおり、鬼門封じの神社や祠(館神)が祀られていた場所、そして櫓が設置された場所ではないか、と考えるのが自然ではないかと。
形状的には、三吉神社参道の登りきったところに土塁があり、北東隅を内側に折り曲げた形状にしていたものと想像します。
城の中心から見ての北東隅を切り落とす、こういったことをするのもよく見られることですから。

関ケ原直後に廃城となった平城の主郭としては、残存度は比較的良好な部類に入る城館跡ではないでしょうか。
・・・ただ、全体像の片りんすら見て取れないのが本当に残念です。
主郭でこの規模なら、二の郭、三の郭は間違いなくあったと思うのです。
訪問された方々
プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなどヌル系ですが、それなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント=https://twitter.com/jcrsrchr

カテゴリ
最新コメント
最新記事
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

リンク
QRコード
QR
ブログランキング
FC2 Blog Ranking

検索フォーム
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
328位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
64位
アクセスランキングを見る>>
月別アーカイブ