羽後仁賀保陣屋

ジャンル:(中世平(丘)城?)近世陣屋
所在地 :秋田県にかほ市平沢字清水60
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :ありません(まぁ、神社の鳥居前がやや広くて、1台程度、短時間なら・・・ゲフンゲフン)
登城日 :2016年6月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
ここは初代仁賀保藩主・仁賀保挙誠(1万石)がその二男誠政に2千石、三男誠次に1千石を分知したことによって築かれたものです。
この2人はそのまま幕臣(旗本)となり、幕末までこの兄弟一族が共同でこの陣屋を通して領地支配を行いました。

少し時代が遡りますが、その前の経過を少し。
このあたりはもともと仁賀保氏の所領でしたが、関ケ原の合戦後の論功行賞のためにあちこちの小名大名が転封・改易などがなされており、仁賀保氏5千石はそのあおりで常陸武田(関係ありませんが、この地が甲斐源氏武田氏の発祥の地)に転封されていました。

しかし、最上氏が改易されたため、その結果として旧領+αで合計1万石の大名としてこの地に復帰することになりました。
晴れて大名になれたのですが、挙誠には何か思うところがあったのでしょう、長男良俊に7千石、二男誠政に2千石、三男誠次に1千石を分知して旗本に逆戻りさせたのでした。
仁賀保藩成立が1623年。分知により旗本に戻るのが1625年。
仁賀保藩はわずか2年程度で消滅することとなりました。

なお、この仁賀保陣屋の前身は中世城館であったという話も聞きましたが、確証はとれていません。

【縄張】
ほとんど消滅しているので分からないのが正直なところ。
仁賀保神社のあるところが主郭相当であることは間違いないのですが、その小丘陵の麓部分がどうだったのか、主郭相当部の周囲にどのような郭があったのか、それともなかったのかは不明なのです。
なお、仁賀保神社の鳥居脇には防火水槽があり、これがかつての堀跡の一部だそうです。

【写真】
現在、主郭部にある仁賀保神社の鳥居
仁賀保神社鳥居

そして、その場から左を見れば、堀跡の一部を利用したといわれる防火水槽
堀跡とされる防火水槽

仁賀保神社の参道
仁賀保神社の参道

この参道周辺は仁賀保公園となっており、そこには城址碑がぽつんと建てられています。
これだけが、かつてここが陣屋であったことを示すものです。
仁賀保公園にある城址碑
参道の階段を登る手前の北側(左手)にやや離れたところに建てられています。

登り切ると仁賀保神社等があります。
仁賀保神社

登り切ったすぐ右手にはこんなものが・・・
保育園碑
へぇ~、保育園だったのか・・・

神社の北側には車道兼歩道があります。
仁賀保神社の北側にある車道兼歩道

かつての大手道相当が改変されたものでしょうか?

神社の南東側には相撲場があります。
仁賀保神社の南東にある相撲場
背後が高くなっていますが、観客席になっています。
改変が激しく、この盛り上がりがかつてなんであったのかは不明です。
相撲場を作るためにわざわざ土を持ってきたものではなさそうですが・・・

この相撲場の南側には歩道があります。
仁賀保神社の南側にある歩道
もしかして、かつての搦手道相当のものを改変したものでしょうか?
また、奥(相撲場の観客席となっている盛り上がりの背後)がなだらかに下っているのはなんでなんでしょう?
小規模な陣屋だから加工しなかったのか、それとも土塁や築山のようなものを切り崩した結果なのか・・・

ネットで調べてもほとんど情報が出てこないので、なんとも歯がゆいところがあります。
・・・地元にかほ市史でも読むしかないのかな?

P.S.
ここから国道7号線を南に数~10㎞程度行くと「にかほ陣屋」がありますので、こちらと混同しないようにご注意くださいw
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羽後浅舞城+平鹿郡代官所

ジャンル:中世~近世初期平城・近世代官所
所在地 :秋田県横手市平鹿町浅舞館廻96 および 浅舞浅舞221−1
お勧め度:☆☆☆☆☆(浅舞城) および ★☆☆☆☆(代官所)
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :琵琶沼の東側に市営の無料駐車場があります。また、浅舞城址である白山神社のところにも何台か停めることが可能なようです
登城日 :2016年6月
城館位置:GoogleMap

※浅舞城と平鹿郡代官所はそれぞれの所在地は近隣ではあるものの、まったく別の土地にあったそうです。一応、平鹿郡を治める機能としては一連の流れがある、ということで一緒にしました。そうしないと、浅舞城だけでは写真も書くこともほとんどありませんので・・・

【来歴】
浅舞城の築城年、築城者は不明です。
戦国時代末期には、現在の秋田県内陸南部を治めていた小野寺氏の一族が城主となっていました。
その後の豊臣秀吉の奥州仕置・太閤検地の際には、このあたりで一揆が勃発し、当時の城主であった小野寺光道がその責任をとって自害したとされています。

その後、太閤蔵入地となったために代官が入城しているようです。

江戸時代になると今の茨城県あたりを治めていた佐竹義宣がこちらに転封した際には佐竹氏が浅舞城を接収しいます。
当面はそのまま使用されたのでしょうが、元和の一国一城令によって廃城となりました。

そして、後にそれに代わる形で郡代官所が建設されたようです。

【写真】
浅舞城
城址碑
白山神社の鳥居のわきに朽ちかけた城址碑があるのみです。
遺構は全く残っていないようです。

郡代官所移築門
代官所移築門

移築門内部
移築門内部
やはり郡代官所の威厳を守るためでしょうか、長屋門ではなく薬医門です。
規模が小さいのはやはり郡代官所レベルですからしょうがないですね。
・・・そういえば、水戸城本丸(現県立水戸第一高校)に残る移築現存門(どこの門であったからは不明)も薬医門でしたね・・・
関係性はないとは思いますけど、不思議なことです。

移築門の説明
代官所移築門の説明

代官所移築門の説明

移築門の南東側に大きなケヤキがありました。
代官所跡のケヤキ

代官所跡のケヤキの説明
・・・あんまり関係ないかな?

郡代官所の外堀代わりと思われる琵琶沼。
琵琶沼
一見あまりきれいな水には見えませんが、豊富に地下水が湧いており、魚にとっては清流といえる沼だそうで、町中にもかかわらず、「イバラトミヨ」希少小魚が住んでいるそうです。

市営駐車場からのアクセスはこんな感じです。
横手市営駐車場
駐車スペースの西側にある冠木門をくぐって・・・
駐車場わきの井戸
ふたはしてあるものの、実際に飲めそうな井戸のわきをとおると・・・
木橋
琵琶沼にかけられた木橋。
これを渡ると、郡代官所跡である浅舞感恩講保育園に到着です。

名前、呼び方の話

時代によって違うところが出てくるのですが、戦国~江戸時代あたりを中心に、大名や武将の呼び方の話をちょいと。
まあ、ちょっと歴史をかじるとすぐに理解できるので、「何をいまさら」程度の話ですが・・・

今の日本も、欧米と比べると呼び方が難しい。
例えば、故人ですが、Apple創業者の一人、スティーブ・ジョブス氏。
Apple内部では「スティーブ」と普通にファーストネームで呼ばれます。
これが日本でなら、会社内部では「CEO」でしょうね。
外部の人ならファミリーネームを使って「ジョブスCEO」もしくは「ジョブス社長」とかかな?
目上の人を呼ぶときにあまり個人名を使わないと思います。
まあ、「課長」と呼ぶと何人かが振り向くような状況だと「○○課長」ですけど。

戦国時代となると、今よりも身分差が厳しく、文化も違っていますので、これまた面倒くさい。
例えば、織田信長。
彼の本能寺の変で亡くなる直前であれば、公式文書では「平朝臣右大臣信長(たいらのあそんうだいじんのぶなが)」となります。
織田、という文字は出てきません。

名前の仕組みが今と全く違うからです。
平=本姓(ほんせい)。自分がどこの一門であるかを示すもの。・・・ただし、織田信長の平の本姓は仮冒(ようはなりすまし)とされていますが。
朝臣=姓(かばね)。八色の姓というやつで定められた、天皇から授けられた地位の称号。まあ、身分のようなもの。授けられた一族はずっとその姓のままです。
右大臣=官職名
信長=諱(いみな)。当時の日本においては、これで呼ぶことはとても失礼でマナーが悪いとされていたので、少なくとも生きている間は、公式文書や自筆(祐筆=代筆を含む)の手紙での署名などのごくまれなシーンにしか使われません。よっぽど身分(地位)の差がなければ、「様」「殿」をつけようとも尊称にはなりません。その名残でしょうか、日本では親しくなるまで下の名前(ファーストネーム)では呼ばないのだと思います(同姓が周囲に多い人だったりするなどの例外はあります)。

あれ? 織田は?
織田=苗字です。多くの場合は自分の領地や本貫地(一番最初に授かった領地)にちなみます。「平氏一門のうちの、家(一族意識が強い集団)が織田」というふうに理解するといいのかもしれません。
格式ばらなければいけないときには使われません。

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(2016年6月29日、7月3日、書き忘れのため追記)

中世のころは、領地や役職名などで苗字を変えることが多々見受けられます。
例えば、大弐氏。
これは、九州大宰府の大弐の官職に就いていたことにちなみます。
例えば、最上氏。
この一族(だけでもないですが)は分かりやすい。
室町幕府成立に貢献したため、弟の足利尊氏から岩手県紫波郡に領地をもらう(当時の郡名は斯波)(兄ではあったけど、母の身分が低いため足利家の当主にはなれず、分家となったようです) -> 斯波氏 -> 一族のうち、斯波兼頼が羽州探題として出羽国の最上郡(今の山形県山形市を中心とした地域)に派遣され定着する -> 最上氏(いずれかの時期、山形氏を名乗った可能性も) -> 勢力拡大をしていき、その拡大した地域に子孫にあちこちに領地を与える -> もう、苗字いっぱいw

苗字はあまり変えないパターン
例1 甲斐源氏武田氏の祖は源義光(源頼義の三男。新羅神社で元服したので、新羅三郎義光ともいわれます)。常陸武田、現在の茨城県ひたちなか市武田で領地を得たことに拠って武田氏となります。
例2 盛岡藩南部氏は甲斐源氏武田氏の流れですが、その苗字の由来は甲斐国巨摩郡、つまりは甲斐の南部を領地として与えられたことを由来としています。甲斐に領地を構えていたころに分家として苗字を変えましたが、その後、今の青森県東部、岩手県北部を領地となった後も苗字を変えないままとなり、今でも南部地域と言えば、「青森県八戸市あたりとか岩手県二戸市あたりね」と認識されているようです。
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口頭や簡易的な手紙での表記はさほど格式ばらず、やや現在と似ているところがあります。
信長より目上もしくは同格であれば、「織田殿」「右府殿」あたりでしょう。
まだ尾張の清須城や小牧山城に在城していたころなら、「尾張殿」「上総介殿」あたりかな、と。
身内や特に親しい間柄であれば、通称の「三郎」(殿や様がつくのかつかないのかは関係次第)でしょう。
もちろん、家臣は「御館様」でしょう。
敵対勢力なら、あだ名の「うつけもの」「大うつけ」などでしょうね。ただ、相手の身分を軽んじるために「信長」もあったかもしれません。

話はちょっとずれますが、もしもあの当時に戻ったとして、現代での呼ばれ方で呼んで絶対に本人が自分を指してると分からない呼称No.1は、きっと「北条早雲」でしょう。
本姓は「平」、姓は「朝臣」、官職は「左京大夫」、諱は「盛時」、苗字は「伊勢」、通称は「新九郎」
異説もありますが、現在の有力説ではほぼこうなっています(官職については有力説とまでは言えないようです)。
隠居&出家して号したのは「早雲庵宗端」。
北条を名乗り始めたのは次代の氏綱から。

これを知ったときはショックでしたよ(゚д゚)

とある祀られた石仏

山形県村山市大字林崎85には、「林崎居合神社」というものがあります。

戦国時代、この辺りに林崎甚助重信という人物がいまして、彼を祀った神社です。

彼は父を殺され、その仇討のために剣術を磨き、居合術または抜刀術と呼ばれる剣技を編み出しました。
そして、彼自身はそうは名乗っていなかったのですが、神夢想林崎流という流派を興しました。
この流派が今の日本にある居合流すべての流派の元祖となっています。
なので、彼を祀る神社には当然、居合の道場も併設されています。

ただ、残念なのは古い時代の、さらには出羽山形。
最上家改易とともに多くの書物が失われていると考えられ、さらには武将としての活躍はなく、武芸者であったため、あまり記録のない人物です。
Wikipediaでもこんな感じの短い解説です。
ちなみに、彼は本姓は源とされているので、おそらくは最上家の分流の分流のそのまた分流の・・・みたいな感じじゃないかと推測されます。

まあそれはさておき、今回は彼本人が主題ではないです。
実は、林崎居合神社からやや離れた、まったく別のところにこんなものがあるのです。
石仏の正面

裏にはこんな碑文が書かれています。
石仏の裏
たいへん読みにくいので、ファイルサイズが大きめです。
私は古い字体に疎いのでよく分かりませんが、要約すると、林崎重信の母を祀っている、ということらしいです。

林崎居合神社が近いとはいえ、小河川を挟んで離れているところになぜ? と聞いてみましたが、昔からこのあたりにあったらしい、その理由は不明。そして、この石仏はおそらく二代目とのこと。

なぜに二代目? と聞いたところ、開発のために撤去したところ火災が2度も出たので、撤去した石仏の恨みではないか、ということで祀りなおしたそうです。

近所のご老人が時々お供え物を持ってきているということです。
特に、なぜか3月3日には必ずお供え物があるとか・・・

P.S.
場所は明記しません。
それほど厳しくはないですが、一応、了解がなければ自由に立ち入りすることができない場所になってますから。
私も関係者に教えてもらっただけですので・・・

麺処いばらき

ジャンル:ラーメン
住所  :山形県西村山郡河北町谷地中央4-4-7
営業時間:11:30~14:00、19:30~25:00(移転前。現在はやや離れたところに移転しているため、夜営業は分かりません)
定休日 :日曜日
駐車場 :ざっと10台前後
HP   :地元情報サイト「YamagataWay」

山形には、「冷やしラーメン」(県南西部では「冷ドン」と呼ばれているようです)があります。
写真で見れば、普通の油浮きのないあっさりラーメン。
実際は、スープが冷たいラーメン。
冷やし中華ではありません。

で、元祖といわれている山形市の某店がありますが、こちらも元祖。
冷やしラーメンの元祖とは言ってません。
「おろし」中華の元祖、と名乗っています。

お店の外観
お店の外観

メニューはこちら
メニュー表

メニュー裏
普通のお店は、「夏限定」と「冬限定」があったりするもので、どちらかというと「夏限定」が多いお店が多数だと思うのですが・・・
こちらのお店は、「冬限定」オンリーです!www

まあ、訪問時は暑かったし、お目当てはおろし中華(わざわざ「冷やし」と書く必要もないほど、当然の状態w)
おろし中華の全体
ひんやり感ばっちりです(*≧∪≦)

麺は、というと・・・
麺アップ
中太~細麺の中間ぐらい・・・いや、ほぼ中太かも。
強い縮れは入ってません。やや縮れかな?

スープ:鶏メインのあっさり中華。当然、冷たいので脂は徹底的に取り除かれてます。なお、冷たいとはいいつつ、そんなに冷たすぎない、ってところ?(たぶん、温度は10度くらい? もっと暑くなったらもっと冷たくなる?)

麺:素直な麺ですね。くせもなく、冷やされていながら硬くなっていない、ちょうどいいコシといえるでしょう。

チャーシュー:・・・ではないのですが、鶏ですね。親鶏でしょう。歯ごたえがあって、うまみも出ている。この「歯ごたえ」を「硬い」と嫌われることもあるかもしれませんが、歯が弱くなければ、さほど硬くもないですよ。

おろし:普通の大根おろしでした(2016年6月時点)。辛味大根だったら最高なのに・・・

総評:さすが、名店。冷やしラーメンに慣れた地元民なら違和感なく、そしておいしく食べられます。テーブルにある酢を回しかけるとさらにまろやかになります。
ただし、酸味を感じるほどに入れず、ちょっとずつ調整しながら入れてください。
訪問された方々
プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなどヌル系ですが、それなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント= https://twitter.com/jcrsrchr

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