陸奥青森御仮屋

ジャンル:近世平城
所在地 :青森県青森市長島一丁目1-1(青森県庁本庁舎)
お勧め度:☆☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :なし
登城日 :2017年8月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
銘板
御仮屋が築かれる前に中世城館があったかどうか・・・特に言及しているものは寡聞ながら聞いたことはありません。
しかし、平野部に規模の大小はさておき、なんらかの統治施設があった可能性は否定できません。

また、近代に入り、青森県庁がここに造られました。
私の知る限り、その地方の主要(じゃない場合も事情によりありますが)近世城郭+城下町か、それに近い程度に重要性・経済性ともに高い城郭に類する施設+街があった場所以外が県庁所在地なのは、青森県のほかには、例外的な北海道札幌市は別格として、新潟県新潟市、千葉県千葉市、神奈川県横浜市、長野県長野市、兵庫県神戸市、奈良県奈良市、宮崎県宮崎市、と少数派です。

新潟県には上越の高田城や下越の村上城、中越の長岡城がある。
千葉県といえば、幕末期に堀田氏がいた佐倉城がある。
神奈川県ならば、江戸の重要防御拠点であった近世小田原城がある。
長野県は多数の藩がありすぎたのでしょうが、県の中心近くには松本城がある。
兵庫県ならば、姫路城がある。
奈良県であれば、大和郡山城がある。
宮崎県であれば、北には延岡城、南には飫肥城がある。

当時の事情なので、それがどうという話ではありませんけど。
ちなみに、ほかは以下のとおり。

岩手県盛岡市=盛岡城(幕末期藩主:南部氏)
宮城県仙台市=仙台城(幕末期藩主:伊達氏)
秋田県秋田市=久保田城(幕末期藩主兼2017年現在の知事:佐竹氏)
山形県山形市=山形城(幕末期藩主:水野氏)
福島県福島市=福島城(幕末期藩主:板倉氏)
茨城県水戸市=水戸城(幕末期藩主:徳川御三家)
栃木県宇都宮市=宇都宮城(幕末期藩主:戸田氏)
群馬県前橋市=前橋城(幕末期藩主:松平氏)
埼玉県さいたま市=浦和御殿(将軍家の鷹狩場の宿所)
東京都=江戸城(言わずと知れた徳川将軍家)
富山県富山市=富山城(幕末期藩主:前田氏)
石川県金沢市=金沢城(幕末期藩主:前田氏)
福井県福井市=福井城(幕末期藩主:結城氏)
山梨県甲府市=甲府城(幕府領。城代が置かれた)
岐阜県岐阜市=大垣城(幕末期藩主:戸田氏。近隣に加納藩もあり)
静岡県静岡市=駿府城(元徳川家康の隠居城。幕府領。城代が置かれた)
愛知県名古屋市=名古屋城(幕末期藩主:徳川御三家)
三重県津市=津城(幕末期藩主:藤堂氏)
滋賀県大津市=膳所城(幕末期藩主:本多氏)
京都府京都市=御所(言わずと知れた日本の権威の中心地。二条城もあり)
大阪府大阪市=大阪城(幕領。城代が置かれた)
和歌山県和歌山市=和歌山城(幕末期藩主:徳川御三家)
鳥取県鳥取市=鳥取城(幕末期藩主:池田氏)
島根県松江市=松江城(幕末期藩主:松平氏)
岡山県岡山市=岡山城(幕末期藩主:池田氏)
広島県広島市=広島城(幕末期藩主:浅野氏)
山口県山口市=山口城(幕末期藩主:毛利氏。幕末に萩城から藩庁を移転したもので、城というよりも政庁と表現するのが正しいかも)
徳島県徳島市=徳島城(幕末期藩主:蜂須賀氏)
香川県高松市=高松城(幕末期藩主:松平氏)
愛媛県松山市=松山城(幕末期藩主:松平氏)
高知県高知市=高知城(幕末期藩主:山内氏)
福岡県福岡市=福岡城(幕末期藩主:黒田氏)
佐賀県佐賀市=佐賀城(幕末期藩主:鍋島氏)
長崎県長崎市=長崎奉行所他(幕領。江戸時代を通じて重要拠点であり、幕末期には幕府海軍の一大拠点でもあった)
熊本県熊本市=熊本城(幕末期藩主:細川氏)
大分県大分市=府内城(幕末期藩主:大給松平氏)
鹿児島県鹿児島市=鹿児島城(幕末期藩主:島津氏)
沖縄県那覇市=首里城(江戸時代を通して島津氏の支配下にあった琉球王家)

なぜ青森県庁が弘前でも八戸でもなく青森になったのかはWikipediaをご参照ください。

【縄張】
現地にあった銘板によれば、東西71間、南北68間ですから、おおよそ120m四方となります。
これは今の青森県庁本庁舎のあるブロックとほぼ同じ規模ですから、そっくりそのまま青森県庁になったものと思われます。
また、この規模であれば単郭の城館と考えるのが妥当と思います。

【写真】
いや、本当に少ないです。
青森県庁東棟。
青森県庁

この玄関の向かって左手に小さな庭があり、そこに城址碑とともに、来歴で掲載した銘板があるのみです。
城址碑

かつては御仮屋ということで、別荘的な(そして藩主がいないほとんどの時期は代官所的な)ものでしたが、今は堂々と津軽藩・黒石藩(津軽藩の支藩)・八戸藩(南部藩から独立して立藩)・七戸藩(南部藩の支藩)・斗南藩(戊辰戦争後の会津藩の減転封)5藩の領地すべてを治める現代の城となったわけですね。
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陸奥泉山館

ジャンル:中世山城
所在地 :青森県三戸郡三戸町泉山 の一部
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :ありませんが、説明板の道路向かいに1~2台程度は駐車可能
登城日 :2017年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
築城時期、築城主とも不明。
説明板

【縄張】
不明。
遺跡指定範囲と現状の地形からすると、南北2郭構造と思われます。

【写真】
南東方向から全体を撮影
現状
道路を挟む両側の果樹園が郭跡です。
高低差があることから、道路工事で破壊されたあたりに切岸や堀があった可能性が考えられます。

最大の見どころは、道路北側にある堀跡。
堀(北側)
とはいえ、樹木で見通しが悪いですが。
深さはかなりありますので、かなり厳重に背後の台地と区画していたようです。

道路南側にも堀の残滓のようなものがあります。
堀(南側)
北側と比較すると浅めになっていますので、道路のあたりに土橋があったのではないか、と思います。

北側の郭。
北の廓
こちら側に館神が今も祀られているとのことですが、果樹が結構密生しているので自粛しました。

北側の郭から南側の郭を見たところ。
南の郭
北側の郭と同様の状態です。

泉山氏は三戸南部氏の一族らしいのですが、館の立地・規模からして、一族の中での序列は低かったと思われます。

陸奥平良ヶ崎城(本三戸城の一部?)

陸奥聖寿寺館と合わせてご覧ください。

ジャンル:中世山(台)城
所在地 :青森県三戸郡南部町沖田面南古館 および 沖田面北古館 にまたがる一部
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :ありませんが、封鎖されているかつての登校道に2台ぐらいは可能
登城日 :2017年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
南部町観光協会の公式HPから引用。
「1192年(建久3)南部氏初代光行の築城とされています。後にここを政庁とし、聖寿寺館を居城としたといわれています。北方の高山峠から浅水を経て五戸へ通じる道と、東方の八戸へ通じる道との分岐点にあり、交通の要所を押さえるところに立地された城館であることが、諸書に述べられています。」

あと、現地説明板です。
説明板

【縄張】
後世の改変が激しく、断定はできませんが、少なくとも3郭程度の構造であったろうと思います。
南古館にある、元町立南部中学校敷地が主要部で、中学校建設に伴う改変があったとは思いますが、この広さだと最低2郭ぐらいはあったでしょうし、現在は道路となっている元空堀の北側には畑があり、こちらに遺構はなさそうでしたが、ここで1郭以上はあったと思います。

【写真】
かつての中学校への入り口であったところ。
かつての登校口
封鎖されているので、一応、たまたま近所の方がいたので聞いたところ「別に入ってもいいよ」とのお言葉w
ありがたく入らせていただきました。

しかし、最低限の管理しかしていないので雑草は防げませんね。
登校口途中

このあたりが校舎や駐車場があったであろうところ。
かつての校舎跡
個人的には、ここを単独の城館としてみた場合の主郭にあたる場所という印象を受けます。

その南側にはかつてのグラウンド、個人的に二の郭相当ではないか、と思われる場所です。
かつてのグラウンド跡
若干の高低差があり、この段差の位置がかつての遺構かどうかはともかく、このあたりで区画していたと考えても、地形、面積からして特に不自然ではない位置だと思います。

旧南部中学校の北側には道路が切れています。
堀跡
本来はこれほど深い大堀切ではなかったと思いますが、相応の規模の堀切があったのではないか、と考えるに十分な幅です。

北の郭跡である畑は・・・
北の郭跡
残念ながら、これといった遺構はなさそうです。
兵站基地のようなものと考えていいのかな、と思います。

P.S.
ネットで調べると、平良ヶ崎城は「ひらがさきじょう」と読んでいるようです。
実際、封鎖されているここに入っていいか尋ねた地元の 方も「ひらがさきじょう」と言っていました。
しかし、南部町公式では「へらがさきじょう」です。
・・・どっちが正しいんでしょうね???

陸奥聖寿寺館(本三戸城)

ジャンル:中世平(台)城
所在地 : 青森県三戸郡南部町小向舘
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :史跡聖寿寺館跡案内所や南部利康公霊屋付近にあります
登城日 :2017年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
説明

説明

【縄張】
聖寿寺館は単独の城館ではなく、多数の郭を伴った群郭式の城館です。
地図
南部氏がこの地に赴いたときに、最初にきちんとした本拠地として定めたのは東端の平良ヶ崎城(ひらがさきじょう)だったそうです。
その後、領地の拡大・一族、家臣の増加とともに城域は拡大していき、聖寿寺館を主郭(惣領家居館)、平良ヶ崎城を政庁とした巨大な城館(東西幅で1.3㎞、南北幅も5~600m程度はあるはず、というほどの広さで、さらには付近に出城的な小向館や馬場館もあります)に成長したと言われています。

【写真】
来歴・縄張で示した写真はすべて史跡聖寿寺館跡案内所に掲示されていたものです。
その中には空撮写真もあり、聖寿寺館の全景が確認できます。
空撮写真
合わせて、南部町公式HPもご覧ください。

今回は雨にたたられたのでかなり端折った訪問です。
まずは、かつての堀+奥州街道跡。
堀跡

ここから西に進むとすぐに堀が出現します。
堀
民家手前の土橋が虎口跡のようです。

ちなみに、その先にも堀跡だった通路があります。
堀跡

郭内部にはわずかですが、発掘調査結果が展示されています。
発掘調査結果説明板
主郭たる聖寿寺館に鍛冶場があるのは、根城と同じです。
群郭式で各郭主(館主といってもいいでしょう)の独立性が高いことから、可能な限り単独でも賄えるものは賄おうという意図があったと思われます。

発掘調査結果

発掘調査結果

城館跡の北方には南部利康公霊屋などがあります。
南部利康公霊屋
杉の巨木の先にあるコンクリートの建物内にこういうものがあるとのこと。
霊屋説明板
史跡聖寿寺館跡案内所にお願いすると無料で見学できるそうです。
私はパスしましたが。


おまけ。
佐藤館です。
佐藤館
東の崖端部から見上げたところ。
西側には堀跡があるようですが、パッと見た感じ、それらしいものは見つけられませんでした。

陸奥上名久井館

ジャンル:中世平(台)城
所在地 : 青森県三戸郡南部町上名久井杉ノ木 と 上名久井野月 にまたがる一部
お勧め度:☆☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :なし
登城日 :2017年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
築城時期、築城主とも不明。
北東方向にある下名久井館とともに、工藤氏の持ち城であったとされています。
廃城時期ですが、史書である「諸城破却書上」に基づけば、天正20年(1592年)、「糠部郡之内 名久井 平城 南部 中務 持分」とありますので、豊臣秀吉の奥州仕置の結果、上名久井、下名久井の区分なく廃城となった可能性が高いのではないかと思います。

【縄張】
遺跡指定範囲と現状地形から想像するに、東西に大きく2つの郭が分けられていたものと思います。
そして両郭とも、いくつか(1つ以上という意味です。立ち入りしにくい場所なので詳細不明)の附属郭を伴っていたように見受けられます。

【写真】
城址碑と、館内を東西に分断している道路。
城址標柱
おそらくは空堀であったのだろうと思います。

西側の郭は最高所は民家でして、近くで写真を撮影するのははばかれたので、上の写真以外はなしです(目視では遺構らしきものも見当たらず)。
東側は一番高いところが畑だったので、農作業中の所有者らしき人にお願いして1枚だけ撮影。
東の郭
こちらも遺構らしきものは見当たらず。

そのまま南側に下っていくと、下りきるちょっと手前に腰郭らしきものがありました。
南東側。
南東の腰郭らしきもの

南西側。
南西の腰郭らしきもの

南西側の別角度。
南西の腰郭らしきもの

残念ながら、これといった遺構は発見できませんでした。
訪問された方々
プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなどヌル系ですが、それなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント=https://twitter.com/jcrsrchr

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