陸中上煤孫館(かみすすまごたて)

ジャンル:中世山(台)城
所在地 :岩手県北上市和賀町煤孫10地割 の一部
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :遺跡指定範囲北端の史跡公園に4台程度
登城日 :2016年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
築城主、築城時期ともに不明。
下煤孫館の説明板によると、下煤孫館の古館の可能性があるとのこと。

現地説明板ではほとんど館のことには触れていませんでした。
説明板

【縄張】
不明。
遺跡内はほぼ中央を農道が縦断しており、それ以外には手が加えられていなさそうなことから、私が現地で確認した郭跡、つまりは主要郭は3郭、附属郭が2郭(郭の分け方として正しいかは別です)は確実にありそうです。

【写真】
説明板脇に車を停めて、公園化されている郭3を目指します(とはいっても目の前w)。
郭3入り口

郭3は経塚のあったあたりが少々高くなっていたり、やや削平が甘い気もしますが、一応平坦な部類でしょう。
郭3
経塚は、もしかするとかつては櫓台だったのかもしれません。

板碑のある郭5から見上げた郭3
郭3の切岸(右手が郭5)
高低差は高くもなく、低くもなく、という感じでしょうか。

郭5にある板碑。
板碑(郭5内)

板碑の説明板(郭5内)

ここから郭1方向を目指していきます。
縦断する道路
なお、写真右手側の郭1・2は入り口がなく、また、下から見る限り藪のようだったので入っていません。

右手には郭2の切岸があります。
郭2の切岸(右手が郭3)
郭3の切岸よりもやや高さがある印象です。

その道路向かいには祠が祀られており、そのそばには土塁らしき盛り上がりがありました。
土塁らしきもの
残存形状からすると、道路工事に伴うものではなさそうなので、遺構とみていいのではないでしょうか。

さらに進んでいくと、右手には土塁と思われるものがあります。
土塁
厚みも高さもあるもので、おそらくは戦国時代の遺構ではないでしょうか。

その先には、道路の両側に空堀が遺ります。
空堀

空堀
雑草で確認しにくいのですが、おそらく箱堀。
これも戦国時代の遺構ではないでしょうか。

上煤孫館が下煤孫館の古館であったとしても、そのまま一族の持ち城として機能し続け、世情に合わせて防御力を強化していったものではないか、と思います。
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陸中下煤孫館(しもすすまごたて)

ジャンル:中世山(台)城
所在地 :岩手県北上市和賀町煤孫5地割(古館神社)
お勧め度:★★☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :主郭北端に建つ展望公園に4台程度
登城日 :2016年5月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
説明板(来歴部分)
・・・読めません(ノ_<)
が、城郭放浪記さんにきれいだった時期の写真がありましたので、こちらをご覧ください。

一応転記(現地説明板の内容を毀損しない範囲での、軽微な追記・表記変更はしてあります)。
「 別名、煤孫城・古館・観音館とも言います。上煤孫館から移った館ともみられています。
 館跡は古館神社境内一帯で、館は低地から高さ約35m、南北約250m、東西約170mの範囲です。主郭は約15,000㎡と広く、副郭の約2倍あります。
 さらに、南側の舌状部には空堀で仕切った約1,000㎡の郭があります。また主郭の前面には帯郭がめぐらされています。
 和賀氏一族の煤孫氏は盛衰をたどりながらも、南北朝時代(1336~1392)は南朝方に属し、盛んな時は今の和賀町、江釣子、湯田、沢内、秋田の一部などをその勢力範囲におさめ、西和賀殿と呼ばれ名をはせました。
 慶長5年の岩崎一揆の際、和賀氏の存亡をかけて南部氏と戦った時の大手門(私注:岩崎城大手門を指すと思われます)の守将は煤孫城主の煤孫上野義重でした。また、『吾妻むかし物語』によれば一揆は煤孫氏一族の煤孫下野守治義(一揆で討ち死に)、煤孫助三郎隆義(宗家滅亡後浪人)などが戦っています。
 なお、煤孫上野義重は慶長6年旧暦5月24日、主君和賀忠親とともに仙台の国分尼寺にて自刃しています。」

築城時期、築城主とも不明ですが、縄張の規模、和賀氏とともに滅亡した煤孫氏の最後の記載はかなりしっかりしています。

【縄張】
説明板(遺構部分)
・・・読めません(ノ_<)
が、城郭放浪記さんにきれいだった時期の写真がありましたので、こちらをご覧ください。

【写真】
説明板脇の神社参道
説明板脇に古館神社の参道がありますが、ちょっと雑草が伸び放題。
主郭に駐車場がありますので、こちらはパスしました。

ちょっと目立たないのですが、案内表示はあります。
案内表示
写真左側を降っていくと説明板方面になります。

入っていくと、あっという間に主郭です。
主郭

古館神社もあります(当たり前)。
主郭(古館神社の背後)
神社との間には明らかに私有地の畑などがあり、こちら側からアプローチしにくいので、大変失礼なことながら背後からだけしか見ていません。
おそらく、位置的に見ても、神社の名称からしても、古館神社あたりに館神が祀られていたと考えていいのではないか、と思います。

展望公園の四阿とその先の風景。
展望公園四阿
北方向にはのんびりとした田園風景が広がります。

そのすぐ西にはこんな地形がありました。
これが本来の絡手の虎口か?
個人的な印象ですが、今の神社参道はかつての登城道(おそらく搦手口)の一部を利用しただけで、本来の登城道は別ルートではないかと思います。

さて、こちらがメインな遺構ではないでしょうか。
主郭大手口はやはり、今の公園および農地への通路となっているこの道ではないかと。
主郭の大手の虎口か?
わざと屈曲させた、土橋&虎口に見えます。

そして、その両側には空堀が残っています。
北方向に延びるもの。
主郭の空堀(北方向)
南方向に延びるもの
主郭の空堀(南方向)
藪ですし、かなり浅くなっていますが、当時のままでしょうね。

南側を高速秋田道で切り取られたとはいえ、主要部はそれなりに残っている城館です。

「岩手県二戸市」短角亭(2回目)

※1回目はこちら

ジャンル:焼肉(岩手短角牛メイン)
住所  :岩手県二戸市石切所字荷渡22-2
電話番号:0195-23-0829
営業時間:11:00~22:00
定休日 :12月31日、1月1日のみ
駐車場 :10台ぐらい
HP   :公式食べログ

今回はディナータイムにお邪魔しました。
外観

今回のお目当てはこちら。
メニュー
分厚いヒレです。

他のメニューはこちら。
メニュー

メニュー

メニュー

メニュー

予約メニュー
他にもデザートや冷麺などもあります。

さて、ヒレ肉様のご登場です。
ヒレ
写真のとおり分厚い。

さらっと焼いていただきます。
ヒレ焼き上がり
・・・うまい! 柔らかい!!
あっさりとした赤身のうまさと柔らかさ、さすが丁寧に育てられた短角牛のヒレ!
2~3枚ぐらいは平気で食べることができそう(注:金銭的にキツイですw)。

これだけだとあっさりしすぎなので、短角牛ホルモンも。
ホルモン

ホルモン焼き中
脂はのっていますが、すぐファイヤー状態になるほどではありません。
柔らかく、まったく臭みのないおいしいホルモンでした。

遠くてなかなか行けませんが、また行きたいお店です。

陸中柳之御所

ジャンル:古代居館(平城)
所在地 :岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所 一帯
お勧め度:★★★☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :柳之御所資料館に20台くらいは停められたはず
登城日 :2016年11月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
いわずと知れた世界遺産、「平泉の文化遺産」を生み出した力の源泉、奥州藤原氏の「御所」です。
藤原清衡~基衡~秀衡と続き、四代目泰衡の時に源頼朝の軍勢によって滅ぼされるまで、支配地で産出した金などの地下資源を活用して豪壮な館、寺院を建立し、「平泉文化」を形成しました。
特に三代目秀衡の時には鎮守府将軍となるほどの権勢を誇りました。
その秀衡の居所と政治・軍事の中心として機能したのが柳之御所です。

【縄張】
柳之御所隣接となる施設の配置はこの写真のとおり。
屋外展示模型
柳之御所の背後(東側)を北上川が流れ、北上川沿い以外は堀を掘って防御し、さらには二重堀の外堀代わりとして「猫間が渕」と呼ばれる低地(もしかすると、当時は低湿地かもしれません)を防御する。
北は高舘(最終的には源義経の居所)が守り、南は伽羅之御所が広がる。
猫間が渕の西には無量光院があり、有事にはおそらくここも陣地とする想定ではないでしょうか。
戦国期以降の平城に比べれば原始的な構造ですが、最悪の場合も想定した堅固な作りといえると思います。

御所内部は以下のような発掘結果が柳之御所資料館に展示されていました。
御所発掘調査結果
こちらの構造は、まさしく古代城柵の政庁というイメージのとおりです。
なお、赤く表示されている建物は、大きさや配置から主要部と想定されているものです。

【写真】
ちなみに、柳之御所は入場時間の制限があります。
入場可能時間

柳之御所資料館の裏手(西側)にある堀
復元堀
単純に直線でなく、屈曲させていることが分かります。
横矢のような意図的な屈曲か、当時の地形上の問題かは不明です。

上の堀の道路を挟んで北側にある堀。
復元堀
こちらも屈曲を見せています。
なお、写真奥側の土手は北上川の川堤。
堤の上は国道4号線が走っています。

柳之御所の南端部から北側を撮影。
南端部から
舗装されている部分は、発掘調査の結果、通路だったようです。
その脇に掘られている溝も、発掘調査の結果のもののようです。

柳之御所の北端部から南側を撮影。
北端部から
幅がありすぎたので、無理やり手動で写真連結しました。

政庁らしさを一番感じるのは、縄張で掲載した発掘調査結果の図面の中で最大の建物である東館と、それをそのまま縮小したような西館です。
東館は完全に昼の政治の舞台ではないでしょうか。
西館は夜の政治の舞台、宴席を設ける場所ではないでしょうか。
だって・・・
池
西館の南端あたりから南南西にあるのが、この池。
おそらく、当時はこの池を中心に意匠を凝らした庭園があったのでしょう。
朝廷からの使者や配下の者たちのねぎらいのための宴席を持つにふさわしいものと思われます。

逆に、頼朝勢に攻められて滅亡時の混乱を感じさせるのがこれ。
井戸跡

井戸の説明

まだまだ調査が続くようですので、また訪れたいと思います。

陸中寺林城

ジャンル:中世平城
所在地 :岩手県花巻市石鳥谷町中寺林12-54(光林寺
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度 :☆☆☆☆☆
駐車場 :お寺の駐車場をお借りするしかありません
登城日 :2016年9月
城館位置:GoogleMap

【来歴】
弘安2年(1279年)築城で、光林寺の縁起によれば、河野伊予守通俊が築城主ではないかと思われます。
その次男である通重は京都在番中に一遍上人に帰依し、通重が領地に戻る際に上人もこの地を訪れ、寺林城に光林寺を開山しました。
ただし、城地すべてが寺院となったかどうかは不明で、豊臣秀吉の奥州仕置の際には浅野六兵衛の陣屋となっています。
おそらくは、両方が並立していたのではないか、と思われます(未確認)。

【縄張】
不明。
光林寺は確実に城館の主要部。
北にある福祉施設や林一帯も城地だったことを示す公的な遺跡の範囲図を見た記憶があるのですが、どこにやったかのか不明。

【写真】
駐車場脇の門から入りました。
光林寺の外門
冠木門なのは城館跡であることを意識してでしょうか?
また、参道もちょっと不自然というか、なぜに鍵型?
かつての城館の名残でしょうか・・・

参道脇にある腰掛石
腰掛石

腰掛石の説明

山門も立派です。
山門

その脇には農業用水路があります。
山門脇の水路
かつての堀跡を利用したものでしょうか?

本堂裏手は少々高くなっており、築山のように利用されています。
本堂裏手にある築山
おそらくは、この高くなっている場所あたりが主郭だった可能性が考えられます。

その北側には土塁らしき痕跡がありました。
土塁らしき痕跡
写真左手に林に透けて見えるのが福祉施設(ルンビニー苑)

施設側から。
北にある福祉施設

また、寺院東側にも土塁の痕跡がありました。
土塁の痕跡
写真中央部やや右手に土塁が欠けているところがありますが、のちの破壊か虎口の痕跡かは不明です。

横から見るとこんな感じです。
土塁らしき痕跡

ほぼ寺院であり、かすかな痕跡しか確認できませんでしたが、あとで調べたら、光林寺の西側の方に空堀や二重堀があるらしい・・・
近くに行ったら見てみたいと思います。


おまけ
象
光林寺北側の土塁の近くになぜかありましたw
訪問された方々
プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなどヌル系ですが、それなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント= https://twitter.com/jcrsrchr

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