誇って、義光の「さむらい道」 山形の高橋義夫さん、本紙連載小説出版(山形新聞のHPそのまま)

以下、完全にまるっとコピーです(山形新聞の該当記事へのリンクはこちら)。

 山形市の作家高橋義夫さんが最上家第11代当主・最上義光を主人公に本紙に連載した小説が「さむらい道(みち)」(上下巻)のタイトルで18日、出版された。「山形の人たちが『自分たちの大将はなかなかの人物だった』と自信を持ってもらうきっかけになれば」。高橋さんは作品に込めた思いをそう語る。

 高橋さんは2015年7月11日から16年12月31日まで526回にわたり、小説「最上義光」を連載。物語は16歳の義光と近習(きんじゅう)が蔵王の温泉で野武士の襲撃を受ける場面から始まり、父・義守との確執、高擶への追放、山形城への帰還と進む。山形城主になってからは天童や寒河江、庄内勢、おいの伊達政宗らとの衝突、最上川の開削、娘・駒姫の悲劇を描き、慶長出羽合戦でクライマックスを迎える。県内の実在する土地やゆかりの名字も頻繁に登場する。

 これまで義光は大河ドラマや軍記物の影響からか、謀略家、冷酷無比という負のイメージで語られることが多かった。「義光だけでなく、強くて勇猛果敢という武将のイメージは作られたもの。人間らしい義光にしたかった」と高橋さん。作中の義光はなかなか戦に踏み切らない。迷って、迷って行かない。だがしぶとくて、一貫している―。「今の山形にいそうなキャラクターでしょう」と笑う。

 義光に取らせた言動のキーワードは、単行本のタイトルにもなっている「さむらい道」だ。この言葉は実際の義光の手紙に「この仕置きはさむらい道に照らして…」「…は、さむらい道に背いている」というように登場するという。さむらい道の具体的の思考体系は分からないものの「『羽州探題』である最上氏の生き方を表現しているのだと思った」。羽州探題は室町幕府から最上氏の祖・斯波兼頼が与えられた役職。「出羽の国を治める“地方長官”のような仕事。だから領民をひどく殺すことになる戦をなるべく避けたのではないだろうか」と考えた。それは城主と家臣を逃がして城を無力化したことや、降伏した敵を家来にしたことなどにも表れているという。

 高橋さんは「戦国時代にのし上がってきた他の武将の目に、義光は『腰抜け侍』と映ったかもしれない。しかし伊達も米沢から移された戦国時代に、代々の領地を守り、広げた義光は『勝ち組』と言っていいだろう」と話した。

 「さむらい道」は中央公論新社刊、上巻384ページ、下巻400ページ。各2052円。注文と問い合わせは山形新聞社販売局「本の宅配便」係フリーダイヤル(0120)818040、県内の各書店へ。

 ▽たかはし・よしおさんは1945年千葉県船橋市生まれ。早稲田大卒業後、雑誌編集者を経て執筆活動に入り、86年から本県在住。92年「狼奉行」で第106回直木賞を受賞。近著は義光の妹で伊達政宗の母義姫を描いた「保春院義姫」、沖縄県令を務めた最後の米沢藩主・上杉茂憲の奮闘ぶりを記した「沖縄の殿様」など。

コピーは以上です。
山形新聞の該当記事へのリンクでもよかったのですが、時間が経つと消えるので・・・

※鮭様(最上義光)好きな人、どうですか?

コピーした文章はすべて山形新聞社の著作物です。
著作権者の方は、好ましくないので削除すべきとお考えになる場合にはお手数ですが、コメント欄にその旨を記載ください。
気づき次第対応します。
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伊達陸奥守政宗

伊達政宗さん、傾奇者というか、やんちゃというか、残酷というか・・・

一般的なイメージではいい方のイメージが強いのですが、やらかしていることが多い人です。
年代順にいくと、次のような感じですかね・・・

1 小手森城のなで斬り
家督を継いで大張り切りで、今でいう福島県中通地方を攻めました。小手森城は大内定綱という、このあたりを治めていた国人領主の支城。
攻めるのは戦国の習いなので、当時は特別なことではありませんが、が・・・
城主であった菊池顕綱とその家臣はともかくとして、城に逃げ込んでいた非戦闘員も、犬ですら斬り殺させたそうです。
本人が、叔父にあたる最上義光に書状を送っているので、数は多少の違いはあれど、間違いのない事実でしょう。
義光はあきれかえったそうです。

2 親父輝宗殺害嫌疑
これは、宮森城で書いたとおり、状況証拠しかないので不明ですが。

3 摺上原の戦い
豊臣秀吉の惣無事令と小田原参陣を無視して当時、会津を治めていた蘆名氏を攻め滅ぼしました。
命令無視を謝罪するため、白衣に十字架を抱えて秀吉に謁見することとなりました。
まあ、蘆名氏も秀吉に非協力だったので大きな問題にされずに済んだようですけど(ただし、とりあえず家の存続としては、という意味)。

4 葛西大崎一揆の扇動の疑い
小田原征伐が終わり、奥羽州仕置きが済んだころ、宮城県北部で一揆がありました。。
葛西大崎とは、それぞれ領主の名前。
特に、大崎氏は奥州探題家。
もうこのころには滅亡していましたが、政宗は自身の領地拡大のための口実として一揆を画策させたのではないか、との疑いがあります。
その後、弁明が通じて許されましたが、この結果、旧領を召し上げられ、今の宮城県中央部から岩手県南部にわたる地域に転封となりました(それまでは、山形県南部の置賜地方、宮城県南部白石地方、福島県内陸部の中通り地方と会津地方)。

5 和賀一揆の扇動の疑い
関ヶ原の合戦のころ、混乱に乗じて領地拡大のために一揆を扇動したという疑いがありました。
徳川家康の命によって山形に集められ奥羽諸将(伊達氏は自領から攻め入ることとされ、今の奥羽北部の諸将。例えば南部氏、秋田氏など)は、小山評定の結果を受けて、上杉討伐軍の主力である徳川軍とそれに従う諸将が引き返していったのを受けて自領に帰りたがっていました。
上杉は大大名であり、また、豊臣秀吉死後の五大老の一人。
戦いたくない相手です。
そこで和賀郡(岩手県内陸部の南西。山に囲まれた地域)で一揆が起こされれば、諸将は「領内不穏」といういい理由をつけて帰れます。
その結果、最上義光は単独で上杉家と対陣することになりました(一応、伊達政宗は援軍を出しましたが、戦場には出てこなかったようです)。
まあ、その結果、徳川家康から伊達政宗に約束された「100万石」というのはないものとされましたけど。

6 大阪の陣における味方撃ち
これは戦闘のさなかであり、詳細は不明ながら、撃たれた水野勝成勢が抗議し、伊達政宗も否定していないので、あった、という事実は確かと思います。
政宗は「伊達の軍法においては敵味方の区別はない」と、逃げる味方に巻き込まれて士気が落ちたらかなわん、という理屈だったそうですが・・・
逃げていた事実はなさそうです。
要は、手柄を先取りした水野勢が気に食わなかったのではないか、という説もあります。

詳細と項目はかなりはしょりましたが、ちょいとネットで調べただけでもいろいろ出てくる人物。
魅力がある人物ですが、相当な「暴れん坊陸奥守」であったのは間違いないようです。

「悪次郎」池田盛周

・・・全国どころか、地元民もどれほど知っていることか、という武将です。

もともと、今の山形県の庄内地方北部を領地としていた国人武将です。
このあたりの土地勘、歴史勘がないと分かりにくいのですが、戦国時代の東北にあっては、大名衆の激戦地の一つでした。

【以下、前段が長いですw しかもはしょってます】
もともと、池田氏の領地あたりの最有力領主は武藤氏(大宝寺氏)。
いつ頃配下となったかは不明ですが、戦国時代には配下となっていたと考えられます。

戦国時代になったとはいえ、あまり大きい戦乱がなかったと思われますが・・・戦国時代も末期に近いころ、最上義光が現山形県内陸の中央~北部をほぼ治めると、彼は戦力的に弱かった日本海沿岸部の制圧を目指します。
・・・彼の言い分なら、「羽州探題に従わない勢力を駆逐する」という名目がありますが、攻められる武藤氏らにすれば今さら何を言っているのか、という話になるでしょう。
そして、それが激戦の引き金になりました。

初戦は武藤氏の重臣に造反者もいて、結果は最上義光の勝ち。

でも、武藤氏は隣国越後の有力家臣の新発田氏と縁戚となっていたからさあ大変。
跡継ぎ(新発田氏の娘の子)が頼っていけば、上杉氏が大手を振って攻めますよね。
景勝の代です。

国力は上杉氏が圧倒的に上だし、最上義光は援軍が間に合わず敗退(十五里ヶ原の戦い)。
しかも、そのころには上杉景勝は豊臣秀吉といい関係を結んでしまっていたのです。
そのため豊臣秀吉の惣無事令に反していたのに上杉氏にはおとがめなしでそのまま領有確定(名目としては武藤氏領の時期を挟んではいるようですが、実質は上杉氏領)。

そして、次に始まるのはいわゆる「太閤検地」
当然のように、豊臣政権に権力を認められている上杉氏としては、検地はしっかりせねば面目が立ちません。

しかし・・・
それまでは、農民は今でいう「脱税」ともいえる、新田開発&開発した田んぼの隠ぺいをしてました。
為政者からすれば脱税そのものですが、そもそも、税がきつすぎるからこそ、「為政者の目にとまらない、田んぼにするに向かないようなところに田んぼを作っていた」、という面もありました。

それを摘発されちゃあ、食っちゃあいけねえよ、と反発したのがのちに「悪次郎」と名乗ることになる池田盛周でした。
【やっと主題に戻ったw】

まあ、反抗しても勝てるわけもなく、逃げるしかない。
逃げる先が東に隣接していた地域、今の山形県最上地域、治めていたのは最上義光の家臣の鮭延秀綱
彼は知らぬ存ぜぬで盛周を匿いきったようです。

秀綱も苦労人だし、主君の最上義光も太閤検地には非協力(義光自身も上記のような隠し田んぼは、存在していないものとしていたようで)。
盛周は元の領地よりはかなり貧しくなったとは思いますが、安住の地を得ました。
そして、盛周自身は天下人に逆らった自分をもって「悪次郎」と名乗ったそうです。
かぶいてますね。

安住の地を手に入れたとはいえ、彼も貧しくていいわけではなく、新田開発をしました。
そのために彼が作った疎水が「悪次郎堰」
今も使われているそうです。

P.S.
盛周から200年以上が過ぎ、いつの間にか、そして確実に明治の維新のころには「悪次郎」は堰の名前どころか、地名にすらなっていました。
明治維新後には土地台帳を作るためかな? 当時の役人がこの地に来たとき、「悪次郎は地名として悪いから改称したほうがいい」という趣旨のことを言ったそうです。
しかし、地元の人たちは改称を拒否したそうです。

今も、悪次郎は「字」として登記簿に残っています。
例えば、当地にある山神社の住所、最上郡真室川町大字大沢字悪次郎2000-1として。
住所表示上は消えてますから、ググっても地図は出ませんけど。

P.S.のP.S.
ご子孫という方のサイトがこちらです。

妹好き? さけ好き? 最上義光

実は、最上義光、ひらがなで書くと「もがみよしあき」です。

どのぐらい前なのかは知りませんが、「もがみよしみつ」と言われていました。

それが分かったのが、妹である通称「義姫」(出家後は保春院。伊達政宗の母)への手紙です。
当時は女性は漢字は習えなかったのが普通で、だから兄(本人)からの手紙はひらがな。
その手紙に「よしあき」と書かれていたので、よしあきで確定しました。

また、さけ好きも手紙でばれてますw
さけはさけでも「鮭」。
関ヶ原の合戦後、国力差がありすぎる西軍方の上杉家によく抗戦したことの褒美として、一度は上杉家に奪われた海沿いの領地(今の山形県庄内地方)を取り戻しました。
そこに配置した家臣から塩引きの鮭を送られ、よっぽどうれしかったらしく、長々とお礼の手紙を書きました。

そうです!
面白おかしくいわれる最上義光の「シスコン」「鮭様」扱いは彼の筆まめさによって、証拠?が残ってしまったからですwww
しかもすべて直筆というから言い逃れはできませんねwww

なお、彼はもう一つ印象深い手紙を書いています。
家臣に対して「命の内に今一度、最上の土を踏み申したく候。水を一杯飲みたく候」という手紙を。
豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に名護屋城に詰めているときです。
臆病風に吹かれた、と言われてもおかしくない手紙。
それでも送りたかった、そして、それを送っても大丈夫なくらいに家臣との絆を信じていたと思われます。
また、秀次(彼の娘は秀次の側室として望まれ、彼は拒否しきれずやむなく娘を送ったといいます。その結果、彼女は秀次に連座して斬首に。一説には、彼女は秀次の顔すら見ない、京について数日のうちに斬首されたといわれます。また、彼はほとんど関係性のないのに秀次派ではないかとの疑いすら受けています)に絡んで秀吉には心証がよくない彼にとっては、捨て駒的に朝鮮半島に渡らなければならないかもしれない、という危機感があったかもしれません。

領民に慕われた最上義光

最上家は山形藩三代目義俊(義俊は改易後の名前ですが、めんどくさいのでこれで統一します)。が最上騒動と呼ばれる家督相続争いの結果、近江大森1万石(うち5千石は三河国内であって、実はきちんと拝領されてないという説もあります)の一代限りの高家となり、義俊も夭逝してしまったため、近江大森5千石の交代寄合となります。

さて、旧最上領(今の山形県の置賜地方(上杉領)を除く山形県全域と、秋田県由利本荘市あたり)ですが、今の県都山形市を中心とするあたりは鳥居忠政22万石、日本海側の庄内地方は酒井忠勝13万8千石とそれぞれ譜代の領地に。
鳥居氏領の北、酒井氏領の東、今の最上郡は鳥居氏の娘婿である戸沢政盛が6万8千石余で入ります。
今の秋田県由利本荘市あたりは小藩分立のような状態です。
・・・さらに悲しいことに、鳥居氏の後はどんどん石高が減らされていき、いつのまにやら山形藩は幕政に失敗した重臣の流刑地がごとき扱いになってしまいました。

それはさておき、その中でひとつの逸話があります。

酒井忠勝は始めて領内の巡視を行なった時、現在の余目町に入り巡視をしていると、盲人が魚を漁りながら「最上源五郎殿は役をばかけぬ、今の殿様雑魚カジカ迄役かける。」と唄っているのを聞いたのです。
忠勝公は「汝は正直な盲人である。しかし源五郎は百万石、我は十万石そこらで格別の違い、故に役を取らねばならぬのだ」といわれ米十俵を賜った有名な話が残っているそうです。
(昭和25年「泉」2号:酒井忠治 /参考文献:東田川郡郷土教育資料、鶴岡沿革史)

最上源五郎は義光、家親、義俊の通称。
この場合、家親、義俊は特段大きな内政変更はしていないはずですから、義光を指すと考えるのが妥当です。

さて、この逸話の忠勝公の発言にはうそが入っています。

最上領は表高(幕府公式)は54万石。
これは当然太閤検地によるものですから、義光が領内開発に熱心だった結果、内高(非公式)100万石はあってもおかしくありません。
「最上家伝覚書」にある主要家臣の石高を合計すると表高を上回る66万石余となるのもその根拠といえます(覚書が間違っている可能性も当然ありますが)。

これだけ内高があるのは、実は新田開発に成功したからです。
特に、平野でありながら水が引きにくいために原野となっていた庄内地方に北楯大堰、因幡堰の疎水による新田開発が成功したことが大きいでしょう。
庄内藩の表高は石直し(いわゆる検地しなおしによる石高見直し。高直しとも)で若干変動しますが、実質30万石はくだらないという説もあるほどです。

つまり、「最上源五郎は100万石、余は30万石」もしくは、「最上源五郎は54万石、余は13万石」なら正直なのですが、わざと最上家を噂の内高の100万石といい、自分は10万石と表高よりも低くいうのはうそつきということです。

でも、うそがあるとはいえ、おそらく、酒井忠勝は他国と同様の課税を行っただけでしょう。
一気に所領が倍増しているだけでなく、新田開発にも成功した最上家の課税が安すぎた、というのが実態でしょうか?
その証拠に、初期はともかくとして、江戸時代中期に酒井家が転封されそうとなったとき(いわゆる「三方領地替え」)には領民から転封阻止の直訴をしようとする者まででるほどでしたから。

まあ、最上義光という人物はもっとも民衆を本当に大事にした殿様の一人であった、ということですね。
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プロフィール

しろめぐらー

Author:しろめぐらー
山形を拠点に日本のお城めぐりを趣味としています。
あわせて、各地のおいしいものも楽しみにしています。

藪、へび、昆虫が嫌いなこと、運動不足でバランス感覚にかけていることなど、さまざまな理由によって険しいお城を避けたり、がんばっても途中撤退するなどヌル系ですが、それなりに巡ってます。

一応、現場主義ですが、間違ってたらコメントなどでご指摘ください。

完全にブログ更新通知と化してしまったTwitterアカウント=https://twitter.com/jcrsrchr

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